LOGIN「以前、九条家の会合で見ました。……玲奈さんのそばにいた女性です」 やはり、九条とつながっていた。 祖母の客を装って店へ入り、棚のそばに立った女が、玲奈のそばにもいた。偶然なわけがない。 「九条ホテルの人なんですか」 「そこまでは、まだ分かりません。ただ、偶然この店へ来た人ではない」 煌は秘書へ向き直った。 「機器と映像を渡してください。設置した女性の身元、送信先、九条との関係を調べます」 設備担当者が機器を運び、秘書も映像を持って店を出た。千尋も、旧「糀ごよみ」の記録集めを続けると約束し、このあと用事があるからと帰っていった。 二人きりになると、煌は糀を見た。 「料理勝負は中止してください」 その言葉を聞いた瞬間、糀は少しだけほっとしてしまった。 「相手は、あなたの店に機器を仕掛けた可能性があります。何を盗られたのかも、まだ分からない。九条が会場と生配信を用意する勝負へ、このままあなたを出せません」 煌の言うことは正しかった。 本当は、怖かった。自分の店で、知らない誰かに見られていた。料理だけではない。客の名前も、千尋の話も盗まれたかもしれない。 そのうえ、九条が用意した厨房に立ち、全国へ顔と料理をさらす。そこでまた何をされるのか分からない。 煌に任せれば、もう九条の舞台へ行かなくていい。祖母の名は弁護士に守ってもらえる。客をこれ以上巻き込まずに済む。 中止にした方がいい。そう思う自分もいた。 けれど、テレビ画面に映った美咲の姿が浮かんだ。 ここで終われば、美咲は祖母の味を受け継いだ料理人として残る。祖母から料理を教わった糀ではなく、祖母の厨房に一度も立ったことのない美咲が。 配信に出たいわけではない。怖さも消えていない。それでも、あの嘘を残したまま終わることはできなかった。 「……それが正しいことは、分かっています」 「なら」 「でも、中止にはしません」 煌の顔が険しくなった。 「どうしてですか」 「今、煌さんが勝負を止めたら、私は料理で勝てないから、神楽坂社長に止めてもらったと言われます」 「事実ではありません」 「事実でなくても、テレビを見た人には分かりません」 全国放送で、美咲は祖母の味を受け継いだ料理人として紹介された。玲奈なら、勝負の中止さえ糀が逃げた証拠として発
煌は、すぐには答えなかった。 「まだ、断定できません」 それでも、心当たりがない顔には見えなかった。 設備担当者は黒い機器を透明な袋へ入れ、棚に残った線と穴を撮影した。 「記録は残っていますか」 「本体に残っている可能性があります。送信先も調べます」 千尋が自分の腕を抱いた。 「私が、仕事のことを話した時もですか」 あの日、千尋は雨に濡れた茶封筒を膝に置き、温かい椀を両手で包んでいた。最初は震えていた指が、食べ終える頃には止まっていた。 仕事で失敗したこと。食事を取れず、胃を壊したこと。糀の料理に救われていたこと。千尋が泣きながら話してくれた言葉は、知らない誰かに聞かせるためのものではない。 あの時間まで、見られていたのだろうか。 「まだ、何が残っているかは分かりません」 糀はそう答えるしかなかった。 料理を盗まれたことにも腹が立つ。けれど、三席しかない店で千尋が打ち明けたことまで盗まれていたとしたら、もっと許せなかった。 予約帳も、この棚の下で開いていた。客の名前と来店日まで写っていたら、糀だけの問題ではない。 その時、糀のスマートフォンが震えた。 九条玲奈からだった。 《同じ牛肉、別の厨房、料理人名を伏せた審査を受け入れます。ただし、対決は九条ホテル公式チャンネルで生配信します》 どうして、今なのだろう。 糀は透明な袋の中の黒い機器を見た。 生配信だけは、最初の招待状から譲らないらしい。 糀はメッセージを保存した。勝負は受ける。けれど、祖母の名前を好きに使うことまで認めたわけではない。 「置いた人を調べられますか」 「調べます」 答えたのは煌だった。 「前に店を調べた時、見つけられませんでした。今度は設置した人も、記録を受け取った人も、必ず見つけます」 低い声だった。煌の手は、固く握られていた。 「煌さんの責任ではありません」 煌が糀を見た。何かを言いかけたが、結局、頷いただけだった。 「私も確認します」 守ってもらうだけで終わりたくなかった。この店へ入った人間の顔なら、糀の方が覚えている。 「……もしかして、修司たちが店へ入った日ではないでしょうか」 糀は、あの日の騒ぎを思い出した。 店の中を荒らされ、通りには人が集まった。祖母の客だと名乗る、見覚え
煌は美咲へ顔を向け、まっすぐ見た。 「婚約は解消します。私が愛しているのは、糀さんです」 その声に迷いはなかった。 「家同士の問題もあるため、きちんと終わらせるには時間がかかります。ですが、結論は変わりません」 婚約はまだ終わっていない。それでも、美咲の前で迷いなく言い切ってくれたことが嬉しくて、体がじんわりと温かくなった。 隣で、千尋が少し驚いた顔をしたあと、糀に向かって微笑んだ。 美咲の笑みが消えた。 煌がさらに何かを言おうとした。 「煌さん」 糀は首を横に振った。 煌は口を閉じ、糀を見た。 煌に庇われてばかりではだめだ。 ここは、自分で言おう。 糀は美咲へ向き直った。 「三席しかないって笑いますけど、美咲さんのお店は、あれだけ席があってもがらがらじゃないですか」 「何ですって?」 「それに、祖母に会ったこともないのに、知ったようなことを言わないでください。九条ホテルに選ばれたからって、祖母から何も習っていないことは変わりません」 糀は一度、口を閉じた。 怖くないわけではない。 それでも、大きく息を吸い、美咲をまっすぐ見た。 「卑怯なやり方には、負けません。勝負します。祖母の味を受け継いだのが誰なのか、私の料理で証明します」 美咲は一瞬、気圧されたように口を閉じた。 美咲が何か言い返そうとした時、手にしていたスマートフォンが鳴った。 「はい、高橋です。……九条ホテルへ? 今からですか」 電話を切ると、美咲は急に得意そうな顔になった。 「九条ホテルから呼び出しよ。私がいなければ、勝負の料理が進まないもの」 美咲は向かいの店へ戻り、慌ただしく戸に鍵をかけた。 「あなたの相手をしている暇はないわ。せいぜい、今のうちに強がっていれば?」 そう言い残し、早足で通りを去っていった。 美咲の姿が角の向こうへ消えるまで、煌は何も言わなかった。 それから秘書へ目を向ける。 少し離れた場所で待機していた設備会社の車が、通りへ入ってきた。 車から降りてきた顔ぶれを見て、糀は目を見開いた。 秘書だけではない。設備会社の作業着を着た男性が三人、その後ろには、スーツ姿の責任者らしい男性もいる。 「社長。現場はこちらで確認いたします」 「私も見ます」 煌が短く答えると、
糀につられるように、千尋も店内を見回した。 「何か、心当たりがあるんですか」 糀は答えず、スマートフォンを持って立ち上がった。 「少し、外で話しませんか」 戸を閉めて通りへ出てから、新しい店の名前を決めた日のことを話した。 《澄乃糀》という名前は、煌と店の中で決めた。その場で登録しただけで、まだ一つも投稿していなかった。それなのに、美咲からすぐに削除するよう連絡が来た。 「美咲さんに、名前を話した人がいたのでは?」 「煌さんは話していません。私もです」 名前だけなら、偶然見つけたと言われるかもしれない。 けれど、雨の日の料理まで同じだった。 「高森さん。あの日の料理のことを、誰かに話しましたか」 「友人に、美味しいものを食べたとは話しました。でも、料理名も作り方も話していません」 千尋は写真も撮っていない。煌も、出された料理を食べただけだ。 千尋が、『糀ごよみ庵』の公式投稿をもう一度開いた。 料理へのこだわりとして、こう書かれている。 《根菜は玉ねぎ麹と一緒に弱火で煮ています。焼きおにぎりは甘酒味噌が焦げやすいので、表面だけを軽く焼きました》 「これも、あの日、三浦さんが私に説明してくれた通りです」 その言葉は、料理を出した時、千尋の前で話した。昔の「糀ごよみ」にも、新しいアカウントにも書いていない。 料理を見ただけでは、火加減まで同じ言葉になるのはおかしい。 糀は店の前から、閉じた引き戸を見た。外からは、厨房もカウンターも見えなかった。 「盗聴とか盗撮とかされてるんでしょうか」 「調べてもらいます」 煌へ電話しようとして、画面の上で指が止まった。 また、婚約者のいる人に頼っていると責められるかもしれない。 けれど、煌は勝負を手伝いたいと言ってくれた。 今は、その言葉を信じよう。 糀は一度息を吸い、煌の名前を押した。 呼び出し音が一度鳴っただけで、低い声が聞こえた。 「煌さん。店のことで、確認したいことがあります」 雨の日の試作と、新しい店の名前が美咲へ漏れていたことを話す。煌は途中で口を挟まなかった。 すべてを聞き終えると、短い沈黙があった。 『あの人なら、やりかねません』 誰のことなのだろう。 糀が尋ねる前に、煌の声が低くなった。 『気づかなかったふ
「意地悪なこと?」 千尋は頷き、スマートフォンをカウンターへ置いた。 画面には、旧「糀ごよみ」へ千尋が書き込んだコメントが映っていた。 《六年前、私が具のない味噌汁を作ったと送った時、返信と一緒に、どんな料理の写真を送ってくれたか覚えていますか》 その下に、旧「糀ごよみ」からの返信がある。 《もちろん覚えています。豆腐とわかめの味噌汁です。あの時、もっと栄養を取ってほしくて、私が作ったものを送りました》 「……写真?」 糀は六年前のやり取りを思い返した。 仕事に追われ、朝も昼も食べられない。そんな千尋が、やっと自分のために作った具のない味噌汁だった。 もっと栄養を取って。次は具を入れて。 あの時の糀は、そんなことを言いたくなかった。温かいものを作れたなら、それで十分だと伝えたかった。 豆腐とわかめの味噌汁の写真を送った記憶もない。 「私、写真は送っていないと思います」 「はい。最初から、そんな写真はありません」 千尋は別の画像を開いた。 六年前の日付がついた、当時のやり取りだった。 《今日は、具のない味噌汁だけ作れました》 《温かいものを自分のために作れたなら、それで十分です》 それだけだった。写真はなかった。豆腐もわかめも勧めていない。 「知らないなら、覚えていないと言うか、返信しないと思ったんです。でも、あの人は、なかった写真まで自分が送ったことにしました」 千尋が小さく笑った。 「あの人、引っかかりました」 書き込んでから十分ほどで返信がつき、その直後に千尋のコメントごと削除されたという。千尋のアカウントは、旧「糀ごよみ」からブロックされていた。 「消されると思ったので、最初から画面を録画していました」 千尋が動画を再生する。 コメントを書き込む前の画面から始まり、旧「糀ごよみ」の返信がつく。しばらくするとコメントも返信も消え、最後にはアカウントを見られなくなった。 すべてが、一つの動画に残っている。 「美咲さんは、嘘をついたんですね」 「はい。六年前から自分が『糀ごよみ』を書いていたなら、なかった写真を送ったなんて答えるはずがありません」 千尋は、六年前と昨日の画面を並べた。 「でも、忘れていただけだと言われたら?」 「実は最近、今の『糀ごよみ』は嘘をついているん
翌日、昨夜連絡をくれた高森千尋が澄乃糀へやってきた。 髪も服も濡らし、仕事の書類が入った茶封筒を抱えて、開店前の店先に立っていた女性だ。 あの日、糀は千尋を三席の真ん中へ通し、玉ねぎ麹を入れた根菜の汁物と、甘酒味噌を塗った焼きおにぎりを出した。料理を口にした千尋は泣き、糀が以前の「糀ごよみ」を書いていたと気づいてくれた。 新しく作った「澄乃糀」の最初のフォロワーになってくれたのも、千尋だった。 「公開料理対決のこと、見ました。私にも協力させてください」 挨拶を済ませるなり言われ、糀は戸惑った。 「ありがたいですが……。どうして、そこまでしてくれるんですか?」 千尋は少しだけうつむいた。 「あの雨宿りのあと、久しぶりに、しっかり眠れたんです」 雨に濡れた書類を見て、情けないですよね、と笑っていた顔を思い出した。 「あの日のご飯が美味しくて。次の日は朝ごはんを食べました。濡らしてしまった書類も作り直して、もう一度、仕事先へ行ったんです。失敗したから、もう駄目だと思っていたのに、謝って出し直したら、受け取ってもらえました」 千尋は顔を上げた。 「その仕事、今もうまくいっています」 あの日は泣きそうな顔でうつむいていた千尋が、今は糀をまっすぐ見ている。 「三浦さんの料理を食べて、もう一度やってみようと思えたんです」 料理を出したあと、その人がどんな朝を迎えたのかまでは分からない。千尋が眠り、朝ごはんを食べ、もう一度仕事へ行ったことを、糀は今初めて知った。 嬉しかった。 家族には、古い、地味、いらないと言われた料理だ。それでも千尋は、その料理を食べた翌朝、また仕事へ行けたと言ってくれた。 「三浦さんの料理で、元気づけられている人がいるんです。私だけじゃありません」 千尋はスマートフォンを取り出した。 画面には、「糀ごよみ」と名づけられたフォルダがあった。 「昔の『糀ごよみ』の投稿、ずっと保存していたんです。投稿が消えても作れるように、好きな料理は画像に残していました」 塩麹に漬けた鶏肉。具の少ない味噌汁。季節の野菜を使った小さなおかず。料理の写真だけではなく、作った日のことや、食べる人を気遣う文章まで残っている。 千尋は昨夜、自分の名前で呼びかけていた。 《昔の「糀ごよみ」の投稿を保存している方







